秋が深まり東京は一年でもとりわけ美しい季節となった。わけても当社の竹橋ビルから眺める皇居の樹海はすばらしい。都心のど真ん中の超一等地にありながら、この100ヘクタールを越える森林は、注意深く自然林の形態が維持され、野鳥や植物の楽園ともなっている。その周りを取り巻くのは、大手町、丸の内、霞ヶ関などで、日本のほとんどの政治・経済活動がそこに集積され、巨大なパワーセンターが形成されている。しかしその中心には、ぽっかりと穴があいていて、そこには自然があるばかりである。
この東京という都市の特殊な構造に最初に着目したのはフランスの構造主義者のロラン・バルトだ。もう30年も前になるが「いかにもこの都市には中心がある。でもその中心は空虚である」と喝破したのだ(『表徴の帝国』1970年)。以来、この言葉は日本文化と社会の特殊性を物語る言葉としておびただしく引用されてきた。
中心が「空」である組織の利点として、安定性がある。話し合いによるコンセンサスがベースにあるからである。欠点としては、逆にあまりにも安定的すぎて、変化し難いことがあげられる。変化を受け入れる風土は希薄で、強いリーダーシップは昔から胡散臭いものと考えられてきた。(ちなみに、日本史における「国民的英雄」は例外なしに悲劇的な最期を遂げる。ヤマトタケル、源義経、楠木正成など。リーダーは挫折してはじめて人々から愛されたのである。)
しかしそれでは日本は永久に変化できないかと言えばそうでもない。数百年に一度は、すごいリーダーが出現して、中心の真空部分に降り立ち、社会に革命的な変化をもたらすのだ。それが源頼朝であり、徳川家康であり、大久保利通であった。いずれも人々から決して愛されはしなかったが強力なリーダーシップを発揮し日本を確実に変化させた。
このような強力なリーダーはどの様な条件が満たされたときに日本に出現するのかだが、いずれの場合でも、人々が現状につくづく嫌気し、変化を求めるコンセンサスが背景にあったように思う。
日産自動車にルノーからゴーン氏がやって来て、ドラスティックな改革を進めている。不思議なことに社内ではそれほど大きな抵抗はないときく。ゴーン氏がやっている改革とは、日産の社員がだれもがやらねばならないと考えていた(しかし出来なかった)ことに過ぎないからということだ。リーダーシップを受容する条件が整っていたのだ。
日本全般についても同じことがいえる。いまや変化の必要性、その方向についてコンセンサスがしっかり形成されている。まさにリーダーシップを受容する条件は整っているのだ。いったんコンセンサスができると日本は動く。日本の変化は確実に始まっているように思う。
(橋本 尚幸)
1999年12月1日水曜日
1999年10月1日金曜日
企業の新規事業展開が日本を不況から脱出させる
若干の景気回復の兆しが見え始めてはいるものの、まだまだ日本経済は不況を脱してはいない。
不況とは国民経済の供給能力が需要を上回る状態を意味するので、不況から脱出する手段として、まず需要を大きくすること、それから供給力を削減することが考えられる。公共事業等の財政政策や、過剰設備の除却への支援措置などだ。しかしこういった政策は、まだまだ需給ギャップの解消に効果を表していないように見える。
この理由は、こうした従来型の政策が需要と供給能力を単に数量的に一致させようとするだけで、供給構造と需要構造の構造的、質的ミスマッチを解消するに至っていないことにある。この10年、需要構造には大きな変化が生じている。その変化を考慮した供給構造の改造が望まれているのだ。
今月なくなったソニーの創業者の盛田昭夫氏は、ウォークマンというまったく新しい商品を開発し、世界中に爆発的な需要を巻き起こした。いま現在もっとも待ち望まれているのは、こういった企画、新規事業に他ならない。
一般的にこのような新規商品とサービスはベンチャー企業によって提供されると考えられている。そこで、わが国においてベンチャー企業の育成ための具体的な仕組み作りが進んでいる。しかし、それにも拘わらず、わが国におけるベンチャー企業活動は、アメリカに比べて非常に見劣りする状態にとどまっている。全産業の開業率はついに廃業率を下回るまでに落ち込んだ。その背景には社会風土や文化の相違があるように思える。
19世紀のフランスの歴史家アレックス・トックビルは、不朽の名著といわれるその著書『アメリカの民主政治』のなかで「アメリカの強さは無数の零細企業にある」と喝破した。アメリカのベンチャー企業には、このように19世紀以来の長い伝統があるのだ。
それに対して、わが国ではむしろ、ベンチャー企業もさることながら大・中堅企業が絶え間なく自己革新と新規事業展開を行うことで、経済の供給構造を時代の変化に対応させてきた。その背後には組織体の維持(お家の存続)がもっとも大事とされた鎌倉時代からの御家人文化の伝統がある。トヨタ自動車の奥田会長が雇用の維持が出来ない経営者はまず自分の腹を切れと言い切って論議を呼んだが、この雇用確保の姿勢は組織体の維持への強い意志、それと裏腹の関係にあるトヨタならではの攻撃的なシェア拡大主義と合わせて初めて理解できるのだ。
当社では、七人の選抜メンバーからなる「戦略ビジネス発掘タスクフォース」が編成され、新規事業によるブレークスルーを目指して鋭意仕事を始めている。日本では、このような企業内の動きこそが企業を発展させ、さらには日本経済全体の活性化をもたらすと期待されるのである。
(橋本 尚幸)
不況とは国民経済の供給能力が需要を上回る状態を意味するので、不況から脱出する手段として、まず需要を大きくすること、それから供給力を削減することが考えられる。公共事業等の財政政策や、過剰設備の除却への支援措置などだ。しかしこういった政策は、まだまだ需給ギャップの解消に効果を表していないように見える。
この理由は、こうした従来型の政策が需要と供給能力を単に数量的に一致させようとするだけで、供給構造と需要構造の構造的、質的ミスマッチを解消するに至っていないことにある。この10年、需要構造には大きな変化が生じている。その変化を考慮した供給構造の改造が望まれているのだ。
今月なくなったソニーの創業者の盛田昭夫氏は、ウォークマンというまったく新しい商品を開発し、世界中に爆発的な需要を巻き起こした。いま現在もっとも待ち望まれているのは、こういった企画、新規事業に他ならない。
一般的にこのような新規商品とサービスはベンチャー企業によって提供されると考えられている。そこで、わが国においてベンチャー企業の育成ための具体的な仕組み作りが進んでいる。しかし、それにも拘わらず、わが国におけるベンチャー企業活動は、アメリカに比べて非常に見劣りする状態にとどまっている。全産業の開業率はついに廃業率を下回るまでに落ち込んだ。その背景には社会風土や文化の相違があるように思える。
19世紀のフランスの歴史家アレックス・トックビルは、不朽の名著といわれるその著書『アメリカの民主政治』のなかで「アメリカの強さは無数の零細企業にある」と喝破した。アメリカのベンチャー企業には、このように19世紀以来の長い伝統があるのだ。
それに対して、わが国ではむしろ、ベンチャー企業もさることながら大・中堅企業が絶え間なく自己革新と新規事業展開を行うことで、経済の供給構造を時代の変化に対応させてきた。その背後には組織体の維持(お家の存続)がもっとも大事とされた鎌倉時代からの御家人文化の伝統がある。トヨタ自動車の奥田会長が雇用の維持が出来ない経営者はまず自分の腹を切れと言い切って論議を呼んだが、この雇用確保の姿勢は組織体の維持への強い意志、それと裏腹の関係にあるトヨタならではの攻撃的なシェア拡大主義と合わせて初めて理解できるのだ。
当社では、七人の選抜メンバーからなる「戦略ビジネス発掘タスクフォース」が編成され、新規事業によるブレークスルーを目指して鋭意仕事を始めている。日本では、このような企業内の動きこそが企業を発展させ、さらには日本経済全体の活性化をもたらすと期待されるのである。
(橋本 尚幸)
1999年9月1日水曜日
高齢化する「団塊の世代」は日本を衰退させるか?
8月1日付のニューヨーク・タイムズは第一面に「21世紀の日本は、人口の減少と高齢化のため、国家としての活力と影響力を失って行くだろう」との内容の記事を載せた。まったく余計なお世話である。そんなことはないと思う。
日本の人口が減少に向かっているのは事実である。しかしこれ自体は決して悪いことではない。朝のラッシュ時の地下鉄に乗ってみるまでもなく、昔から日本では人が多すぎることが問題であった。『七人の侍』と『楢山節考』の映画を見てもわかる。だから人口減少は必ず生産性の上昇をもたらすので、人口減少に比例してGDPが減ることはありえない。
高齢化の進行にしても非生産人口の増加を必ずしも意味するものではない。健康医療、家事・介護ロボット、さらにアルツハイマー治療薬の開発がハイピッチで進んでいる。逆に子供の数が減るので教育、養育費の負担は軽くなる。「実質的な」生産人口比率は、いまとほとんど変わらない可能性が高いのである。
問題は、肉体的には元気でまだまだ働けるお年寄りにどう働いてもらうかである。定年延長が常識的な回答であろうが、中高年からは「まだ働かせるの、堪忍して欲しいな」との本音のつぶやきが聞こえることも事実である。先進諸国では高齢者の就業比率は急速に低下しつつあり従来型の定年延長はその流れに逆行するともいえる。別の高年者の有効活用法を考えねばならないのである。筆者の考えでは、ずばり、彼らには「本当の投資家」になってもらえばよいと思う。
日本の莫大な個人金融資産の大部分は60歳以上の高齢者に保有されている。彼らは非常に保守的であり、日本においては「リスクキャピタル」は遂に育たず、これが経済低迷の原因ともなった。
しかしいま高齢化しつつあるのは戦後生まれの「団塊の世代」である。いろいろ批判はされるが、ともかく戦後の民主教育のおかげで知識の平均レベルは高く好奇心も強い。1200兆円の個人金融資産も相続などを通じてやがては彼らのものとなる。その時こそ、日本に新しいタイプの投資家集団が出現する。麻雀、パチンコに明け暮れた世代だ、リスク・テイキングはお手のものだ。
現役を引退した「団塊の世代」は、日本の歴史上はじめて、生産者の利益ではなく消費者の利益を主張する政治的な層を形成することになる。前川レポート以来、指向されてきた日本経済の消費主導型経済への転換が、年老いた団塊世代の自己主張で一気に実現できるかも知れない。また国際金融市場でも彼らは「連合赤軍」的な投資行動で各国の金融当局者を戦々恐々とさせるかもしれない。
その数の多さ故に、戦後の日本社会を常に揺るがしてきた「団塊の世代」だが、われわれはまだまだ彼らから目を離すことができないように思う。
(橋本尚幸)
日本の人口が減少に向かっているのは事実である。しかしこれ自体は決して悪いことではない。朝のラッシュ時の地下鉄に乗ってみるまでもなく、昔から日本では人が多すぎることが問題であった。『七人の侍』と『楢山節考』の映画を見てもわかる。だから人口減少は必ず生産性の上昇をもたらすので、人口減少に比例してGDPが減ることはありえない。
高齢化の進行にしても非生産人口の増加を必ずしも意味するものではない。健康医療、家事・介護ロボット、さらにアルツハイマー治療薬の開発がハイピッチで進んでいる。逆に子供の数が減るので教育、養育費の負担は軽くなる。「実質的な」生産人口比率は、いまとほとんど変わらない可能性が高いのである。
問題は、肉体的には元気でまだまだ働けるお年寄りにどう働いてもらうかである。定年延長が常識的な回答であろうが、中高年からは「まだ働かせるの、堪忍して欲しいな」との本音のつぶやきが聞こえることも事実である。先進諸国では高齢者の就業比率は急速に低下しつつあり従来型の定年延長はその流れに逆行するともいえる。別の高年者の有効活用法を考えねばならないのである。筆者の考えでは、ずばり、彼らには「本当の投資家」になってもらえばよいと思う。
日本の莫大な個人金融資産の大部分は60歳以上の高齢者に保有されている。彼らは非常に保守的であり、日本においては「リスクキャピタル」は遂に育たず、これが経済低迷の原因ともなった。
しかしいま高齢化しつつあるのは戦後生まれの「団塊の世代」である。いろいろ批判はされるが、ともかく戦後の民主教育のおかげで知識の平均レベルは高く好奇心も強い。1200兆円の個人金融資産も相続などを通じてやがては彼らのものとなる。その時こそ、日本に新しいタイプの投資家集団が出現する。麻雀、パチンコに明け暮れた世代だ、リスク・テイキングはお手のものだ。
現役を引退した「団塊の世代」は、日本の歴史上はじめて、生産者の利益ではなく消費者の利益を主張する政治的な層を形成することになる。前川レポート以来、指向されてきた日本経済の消費主導型経済への転換が、年老いた団塊世代の自己主張で一気に実現できるかも知れない。また国際金融市場でも彼らは「連合赤軍」的な投資行動で各国の金融当局者を戦々恐々とさせるかもしれない。
その数の多さ故に、戦後の日本社会を常に揺るがしてきた「団塊の世代」だが、われわれはまだまだ彼らから目を離すことができないように思う。
(橋本尚幸)
1999年8月1日日曜日
「総合」商社は時代遅れであるか?
戦後、日本企業は一貫して多角化を進め、総合化の道を進んできたが、最近は自分の得意分野に経営資源を重点的に投入する傾向が顕著になっている。今や「選択と集中」というのが時代のキーワードだ。では何でも扱う「総合」商社も、もはや時代遅れであるのか? そうではないと思う。商社にとっては、その「総合力」こそが強みの源泉なのである。
まず商業と製造業との質的な相違がある。製造メーカーが製品を「製造する」のに対して商社は製品を「取り扱う」。製造業では「選択と集中」が競争力の強化につながるのが普通だが、商社の取扱商品の「選択と集中」は必ずしもそうではない。大根の販売に集中しても八百屋の経営が良くならないのと同じだ。
次に、一般企業の「選択と集中」が進み、企業の守備範囲が狭まれば狭まるほど、総合的なサービスへのニーズが高まることである。企業が専門性を高める一方で直面する問題は複雑化してきている。それが故に「オルガナイザー」、「ソリューション・プロバイダー」という総合商社の役割が一層重要になってくるのだ。
そもそもそれは商人の役割でもある。商人とは、船乗りシンドバッドの昔から、万国の世情、各地の物産に関する豊富な知識の持ち主であり、人々により有利な取引機会を提案するビジネス創造者であった。そのベースには知識と情報があった。三井物産の創設者で価値の高い美術品コレクションを残した益田孝の骨董品の鑑定眼は有名だが、その美術品の「違いがわかる」能力とは、商社マンの力そのものでもあったのだ。商社のコア・コンピタンスとは、やはりひとりひとりの商社マンの見識の広さにある。それは客先ニーズへの対応力の広さであり、すなわち「総合力」に他ならないのだ。
しかし問題がないわけではない。商社の規模がどんどん大きくなるにつれ、組織が細分化され、商社マンの専門性は深まってはいるが、逆に総合性が弱くなっているように思えることだ。ある特定の商品の知識しか持たない専門家はメーカーのセールスマンはつとまっても「商人」とは呼べない。商社マンひとりひとりの知識を、組織的に集積し、体系化し、全員で利用可能なものとすること、すなわち「ナレッジ・マネージメント」が喫緊の課題となっているように思う。
19世紀のイギリスでは、国策に基づきプラントハンターと呼ばれた植物専門家が世界中に派遣され植物収集を行った。集めた膨大な標本、データは、王立キュー植物園で体系化され、それが大英帝国発展パワーの源泉となった。プラントハンターは日本の商社マンのようだが、日本の商社には残念ながら王立キュー植物園に相当する体系化されたノウハウ蓄積システムがない。夏休みのシーズンでもある。植物採集でもしながら商社内キュー植物園の構築に思いをはすのは如何。
(1999年8月2日 橋本尚幸)
まず商業と製造業との質的な相違がある。製造メーカーが製品を「製造する」のに対して商社は製品を「取り扱う」。製造業では「選択と集中」が競争力の強化につながるのが普通だが、商社の取扱商品の「選択と集中」は必ずしもそうではない。大根の販売に集中しても八百屋の経営が良くならないのと同じだ。
次に、一般企業の「選択と集中」が進み、企業の守備範囲が狭まれば狭まるほど、総合的なサービスへのニーズが高まることである。企業が専門性を高める一方で直面する問題は複雑化してきている。それが故に「オルガナイザー」、「ソリューション・プロバイダー」という総合商社の役割が一層重要になってくるのだ。
そもそもそれは商人の役割でもある。商人とは、船乗りシンドバッドの昔から、万国の世情、各地の物産に関する豊富な知識の持ち主であり、人々により有利な取引機会を提案するビジネス創造者であった。そのベースには知識と情報があった。三井物産の創設者で価値の高い美術品コレクションを残した益田孝の骨董品の鑑定眼は有名だが、その美術品の「違いがわかる」能力とは、商社マンの力そのものでもあったのだ。商社のコア・コンピタンスとは、やはりひとりひとりの商社マンの見識の広さにある。それは客先ニーズへの対応力の広さであり、すなわち「総合力」に他ならないのだ。
しかし問題がないわけではない。商社の規模がどんどん大きくなるにつれ、組織が細分化され、商社マンの専門性は深まってはいるが、逆に総合性が弱くなっているように思えることだ。ある特定の商品の知識しか持たない専門家はメーカーのセールスマンはつとまっても「商人」とは呼べない。商社マンひとりひとりの知識を、組織的に集積し、体系化し、全員で利用可能なものとすること、すなわち「ナレッジ・マネージメント」が喫緊の課題となっているように思う。
19世紀のイギリスでは、国策に基づきプラントハンターと呼ばれた植物専門家が世界中に派遣され植物収集を行った。集めた膨大な標本、データは、王立キュー植物園で体系化され、それが大英帝国発展パワーの源泉となった。プラントハンターは日本の商社マンのようだが、日本の商社には残念ながら王立キュー植物園に相当する体系化されたノウハウ蓄積システムがない。夏休みのシーズンでもある。植物採集でもしながら商社内キュー植物園の構築に思いをはすのは如何。
(1999年8月2日 橋本尚幸)
1999年7月5日月曜日
サラリーマンは企業の「隠れ債務」であるか
トヨタ自動車の首脳が終身雇用制度を守るといったとして、格付け機関のムーディーズが、トヨタ自動車の格付けを最上級のAAAからAa1に一ランク格下げしたことは、まだ記憶に新しい。終身雇用制度を維持することは「簿外の債務(隠れ債務)」を発生させるからだという。はたしてわれわれサラリーマンは企業の「隠れ債務」なのか。
日本の終身雇用・年功序列賃金制度のもとでは、サラリーマンは中高年を過ぎると自分が提供する役務以上の報酬をもらうことになる。ムーディーズはこれを、給料の過大支払の約束、すなわち隠れた「債務」で見なしたものである。
それに対して、日本のサラリーマンは若い働き盛りの間、働きに応じた十分な報酬をもらっておらず、その「貸し」を中高年に入ってから取り返しているに過ぎないとの主張もある。これは、従業員は経営に対して「債権者」の資格で発言権を有する、というステークホルダー議論にもつながってくる。そうだとすると、中高年層をねらったリストラなぞは、サラリーマンへの過去の過小給料支払い分(会社としての「借り」)を踏み倒すことにほかならず、とんでもないことだということになる。
本当にそうなのか。結論を急ぐ前に、二つほど考えなければならないことがあるように思う。
一つは、この種の議論は一般に平均値での議論がなされるが、ひとりひとりの個別ケースとなると千差万別だということだ。自分は受け取っている給料より遙かに大きな役務を提供していると自負する人が大部分だと思うが、現実は必ずしもそうでもないケースがあることも、これまた事実なのである(モチロンアナタノコトデハナイ)。
もう一つは、企業と従業員の時間空間をまたがる貸し借り関係は、企業ばかりでなく、従業員をも拘束することから、企業活動と従業員の人生両方を停滞的なものとするということである。江戸時代の住友にも「末家制度」という制度があった。若いうちの給金を低くおさえるかわりに死ぬまで終身年金を払うというシステムであったが、世の中がゆっくりと動く江戸時代であるからこそ機能したもので、明治に入って変化の早い時代になると、この制度は捨てられることになる。
ということで、やはり、どの個人をとっても、またどの時点をとっても、常に「貸し借りなし」と認められる報酬システムが望ましいことになる。ついにトヨタ自動車も従来の年功賃金から能力主義への移行を発表することになった。
永井荷風は、「貸し」と「借り」が複雑に入り組んだ日本社会の仕組みがどうにも我慢がならず、貸しをつくらない、また借りもつくらないという「不施不受」の哲学を徹底して実践した人であった。これが近代個人主義の原点であると考えたからだ。平成の時代、荷風の生き方が非常に今日的であると見直されているが、われわれのお給料も「貸し借りなし」で決めたいものだ。
(1999年7月5日 橋本尚幸)
日本の終身雇用・年功序列賃金制度のもとでは、サラリーマンは中高年を過ぎると自分が提供する役務以上の報酬をもらうことになる。ムーディーズはこれを、給料の過大支払の約束、すなわち隠れた「債務」で見なしたものである。
それに対して、日本のサラリーマンは若い働き盛りの間、働きに応じた十分な報酬をもらっておらず、その「貸し」を中高年に入ってから取り返しているに過ぎないとの主張もある。これは、従業員は経営に対して「債権者」の資格で発言権を有する、というステークホルダー議論にもつながってくる。そうだとすると、中高年層をねらったリストラなぞは、サラリーマンへの過去の過小給料支払い分(会社としての「借り」)を踏み倒すことにほかならず、とんでもないことだということになる。
本当にそうなのか。結論を急ぐ前に、二つほど考えなければならないことがあるように思う。
一つは、この種の議論は一般に平均値での議論がなされるが、ひとりひとりの個別ケースとなると千差万別だということだ。自分は受け取っている給料より遙かに大きな役務を提供していると自負する人が大部分だと思うが、現実は必ずしもそうでもないケースがあることも、これまた事実なのである(モチロンアナタノコトデハナイ)。
もう一つは、企業と従業員の時間空間をまたがる貸し借り関係は、企業ばかりでなく、従業員をも拘束することから、企業活動と従業員の人生両方を停滞的なものとするということである。江戸時代の住友にも「末家制度」という制度があった。若いうちの給金を低くおさえるかわりに死ぬまで終身年金を払うというシステムであったが、世の中がゆっくりと動く江戸時代であるからこそ機能したもので、明治に入って変化の早い時代になると、この制度は捨てられることになる。
ということで、やはり、どの個人をとっても、またどの時点をとっても、常に「貸し借りなし」と認められる報酬システムが望ましいことになる。ついにトヨタ自動車も従来の年功賃金から能力主義への移行を発表することになった。
永井荷風は、「貸し」と「借り」が複雑に入り組んだ日本社会の仕組みがどうにも我慢がならず、貸しをつくらない、また借りもつくらないという「不施不受」の哲学を徹底して実践した人であった。これが近代個人主義の原点であると考えたからだ。平成の時代、荷風の生き方が非常に今日的であると見直されているが、われわれのお給料も「貸し借りなし」で決めたいものだ。
(1999年7月5日 橋本尚幸)
1999年6月7日月曜日
産業競争力と経済の二重構造
日本の産業競争力は、昨今いちじるしく低下したといわれている。スイスのローザンヌに本部を置く経営開発国際研究所(IMD)が毎年発表する「世界競争力報告」と題するリポートによれば、99年の日本の競争力は世界で16位とのことだ。もちろん1位は米国である。2位にシンガポールがくる。香港は7位、カナダですら10位と日本よりも前に付けている。「ランキングを改善するためにも、日本は国内経済の改革や、企業・金融部門のリストラを続けなければならない」という(ナンシー・レイン「日本、構造改革へ待ったなし」『日経新聞 経済教室』99年5月24日)。
同じ問題意識のもとに経団連は産業競争力会議に対して包括的な要望事項を提言している。過剰設備の廃棄、雇用対策、不動産流動化を3本柱とする幅広い官民一体の対策を講じて、衰えてきている日本産業の競争力を取り戻すことが喫緊の課題であるという。
でもちょっとわからないことがある。98年の日本の貿易収支は1000億ドルを優に超える大幅黒字だということだ。日本産業の国際競争力は惨めなほどに低下していると指摘されているにもかかわらず、輸出が続いている。競争力がなければそもそも輸出自体が成り立たないはず。これはどう理解すればよいのか。
ここでわれわれは古くて懐かしい「日本経済の二重構造問題」にたどり着くことになる。一部の限られた産業は抜群の競争力を有しているが、同時にすこぶる効率が悪く、コストの高い産業部門が、淘汰されないで牢固として存続しているということである。発展産業分野と衰退産業部門、製造業と非製造業、強い会社と弱い会社、大企業と中小企業、これらさまざまの二重構造は日本の経済ピクチャーに複雑な綾を織り込んでいる。購買力平価にも如実に日本経済の二重構造があらわれている。輸出物価で推計した購買力平価と消費者物価で推計した購買力平価では1ドルに対して優に5~60円の差が出るのだ。競争力がないのは決して「産業全体」ではなく「一部の産業部門」に過ぎない。
すでに60年代からこの二重構造の解消が叫ばれてきたが、現在に至るまで成果はなかった。70年代の石油危機では「みんな一緒に」頑張ったし、80年代の円高進行も「みんな一緒に」切り抜けた。そうこうするうちにバブルという神風に「みんな一緒に」救われた。いま未曾有の不況の中でまたしても「みんな一緒に」対策を考えている。
いまやらねばならないことは、比較劣位の部門を「再生」という名の下に救済し二重構造を温存することではなく、比較優位部門への生産要素の自然な移動を放任することではないのか。
ちなみに、この「みんな一緒に」という官民一体型の産業政策システムは、戦争遂行を目的として昭和の10年代につくられたものだ。それまではもっとシンプルで古典的な資本主義システムであった。
その古典的なシステムのもとで日本産業は大きく変化し発展した。それと比較すればいま必要とされている構造調整はさほど大きなものではない。明治・大正時代からの本来の「日本的」経済システムにもっと信頼を持ちたいものだ。
(1999年6月7日 橋本尚幸)
同じ問題意識のもとに経団連は産業競争力会議に対して包括的な要望事項を提言している。過剰設備の廃棄、雇用対策、不動産流動化を3本柱とする幅広い官民一体の対策を講じて、衰えてきている日本産業の競争力を取り戻すことが喫緊の課題であるという。
でもちょっとわからないことがある。98年の日本の貿易収支は1000億ドルを優に超える大幅黒字だということだ。日本産業の国際競争力は惨めなほどに低下していると指摘されているにもかかわらず、輸出が続いている。競争力がなければそもそも輸出自体が成り立たないはず。これはどう理解すればよいのか。
ここでわれわれは古くて懐かしい「日本経済の二重構造問題」にたどり着くことになる。一部の限られた産業は抜群の競争力を有しているが、同時にすこぶる効率が悪く、コストの高い産業部門が、淘汰されないで牢固として存続しているということである。発展産業分野と衰退産業部門、製造業と非製造業、強い会社と弱い会社、大企業と中小企業、これらさまざまの二重構造は日本の経済ピクチャーに複雑な綾を織り込んでいる。購買力平価にも如実に日本経済の二重構造があらわれている。輸出物価で推計した購買力平価と消費者物価で推計した購買力平価では1ドルに対して優に5~60円の差が出るのだ。競争力がないのは決して「産業全体」ではなく「一部の産業部門」に過ぎない。
すでに60年代からこの二重構造の解消が叫ばれてきたが、現在に至るまで成果はなかった。70年代の石油危機では「みんな一緒に」頑張ったし、80年代の円高進行も「みんな一緒に」切り抜けた。そうこうするうちにバブルという神風に「みんな一緒に」救われた。いま未曾有の不況の中でまたしても「みんな一緒に」対策を考えている。
いまやらねばならないことは、比較劣位の部門を「再生」という名の下に救済し二重構造を温存することではなく、比較優位部門への生産要素の自然な移動を放任することではないのか。
ちなみに、この「みんな一緒に」という官民一体型の産業政策システムは、戦争遂行を目的として昭和の10年代につくられたものだ。それまではもっとシンプルで古典的な資本主義システムであった。
その古典的なシステムのもとで日本産業は大きく変化し発展した。それと比較すればいま必要とされている構造調整はさほど大きなものではない。明治・大正時代からの本来の「日本的」経済システムにもっと信頼を持ちたいものだ。
(1999年6月7日 橋本尚幸)
1999年5月10日月曜日
「会社の大きさ」は何で測るか?
企業経営において、事業の成長力とか経常利益とか「質」の部分の評価に加え、事業の大きさという「量」の部分の評価も、企業の社会的な役割・存在感といったものにつながってくるわけで、依然として大切なファクターである。でも、事業の大きさはどうやって測るのか。異なる業種に属する二つの企業はどうやって比較するのか。単純に売上高で比較してよいのか。従業員数か。異業種間での事業の売買、交換が日常化する現代、この問題はより大切になってきているようにみえる。
そこで注目したいのが企業の粗付加価値額である。粗付加価値とは当該企業のオペレーションにより付加された価値の合計であり、売上高から売上原価及び経費を差し引いたものと思えばよい。具体的には税引後経常利益、純支払金利、人件費、賃借料、減価償却費、租税公課の合計となる。企業が多くのステークホルダーズ(株主、融資元、従業員、地主・家主、公共社会など)に対して分配する価値の合計といえる。すべての経済活動の粗付加価値を合計したものがGDPであるので、企業の粗付加価値とは、その企業のGDPへの貢献度とも云えるのである。
日本の全企業、産業について粗付加価値をひとつひとつ計算するのはなかなか骨が折れる仕事だが、さいわいに通産省でつくった「わが国企業の経営分析」という資料がとても便利である。この資料から、二三の発見をご紹介することにしたい。
日本の資本金10億円以上の大企業1659社が捻出する粗付加価値合計額は平成9年度で70兆円、GDP504兆円の14%を占める。このうち製造業は1060社で36兆円、非製造業が599社で34兆円の粗付加価値を産出する。一社あたりでは非製造業の方がはるかに大きく、日本のサービス産業の巨大化は予想以上に進んでいることがわかる。
具体的にみると、スーパーマーケット業29社の粗付加価値は合計で1兆9000億円となり、巨大装置産業である高炉製鉄業8社の粗付加価値1兆8000億円をしのぐ。道路運送業18社の粗付加価値は1兆8000億円で、医薬品製造業40社の合計と同じくらいだ。また電気通信サービス業はたったの2社で4兆2000億円の粗付加価値を産出し日本経済の牽引役である自動車関連製造業25社の粗付加価値4兆4000億円に肩を並べる。
ところで「21世紀型サービス産業」である総合商社はどうか。総合商社9社は年間約1兆円の粗付加価値を生み出している。規模として高炉製鉄業8社の半分強である。非鉄金属製造業33社、水運業18社、航空運輸業5社とほぼ同じくらい。出版・印刷業11社の1.5倍、工作機械30社の3倍である。
総合商社の売上高がきわめて大きい一方で利益の絶対額が小さい。そのため過去において、ある時は総合商社は実力以上に巨大な存在と見られ自信過剰になったり、ある時はその反動で必要以上に過小評価され自信喪失に陥ったように思う。でも粗付加価値でみれば、実態はそれほど巨大でもないし、またそれほど捨てたものでもない。身の丈に応じた社会貢献(粗付加価値の創出)を続けたいものだ。
(1999年5月10日 橋本尚幸)
そこで注目したいのが企業の粗付加価値額である。粗付加価値とは当該企業のオペレーションにより付加された価値の合計であり、売上高から売上原価及び経費を差し引いたものと思えばよい。具体的には税引後経常利益、純支払金利、人件費、賃借料、減価償却費、租税公課の合計となる。企業が多くのステークホルダーズ(株主、融資元、従業員、地主・家主、公共社会など)に対して分配する価値の合計といえる。すべての経済活動の粗付加価値を合計したものがGDPであるので、企業の粗付加価値とは、その企業のGDPへの貢献度とも云えるのである。
日本の全企業、産業について粗付加価値をひとつひとつ計算するのはなかなか骨が折れる仕事だが、さいわいに通産省でつくった「わが国企業の経営分析」という資料がとても便利である。この資料から、二三の発見をご紹介することにしたい。
日本の資本金10億円以上の大企業1659社が捻出する粗付加価値合計額は平成9年度で70兆円、GDP504兆円の14%を占める。このうち製造業は1060社で36兆円、非製造業が599社で34兆円の粗付加価値を産出する。一社あたりでは非製造業の方がはるかに大きく、日本のサービス産業の巨大化は予想以上に進んでいることがわかる。
具体的にみると、スーパーマーケット業29社の粗付加価値は合計で1兆9000億円となり、巨大装置産業である高炉製鉄業8社の粗付加価値1兆8000億円をしのぐ。道路運送業18社の粗付加価値は1兆8000億円で、医薬品製造業40社の合計と同じくらいだ。また電気通信サービス業はたったの2社で4兆2000億円の粗付加価値を産出し日本経済の牽引役である自動車関連製造業25社の粗付加価値4兆4000億円に肩を並べる。
ところで「21世紀型サービス産業」である総合商社はどうか。総合商社9社は年間約1兆円の粗付加価値を生み出している。規模として高炉製鉄業8社の半分強である。非鉄金属製造業33社、水運業18社、航空運輸業5社とほぼ同じくらい。出版・印刷業11社の1.5倍、工作機械30社の3倍である。
総合商社の売上高がきわめて大きい一方で利益の絶対額が小さい。そのため過去において、ある時は総合商社は実力以上に巨大な存在と見られ自信過剰になったり、ある時はその反動で必要以上に過小評価され自信喪失に陥ったように思う。でも粗付加価値でみれば、実態はそれほど巨大でもないし、またそれほど捨てたものでもない。身の丈に応じた社会貢献(粗付加価値の創出)を続けたいものだ。
(1999年5月10日 橋本尚幸)
1999年4月5日月曜日
21世紀、誰が日本の寝たきり老人を養うのか
アメリカ景気の強さといったら、それはもうたいへんなもので、まったくうらやましい。一方で、わが国経済ときたら、ご存知の低迷ぶりで、見ていて歯がゆいばかりである。
そんな中で、アメリカの一流エコノミストが「日本の景気回復は当分期待できない。だから日本からアメリカへの資本移動は続かざるをえない。したがってアメリカの景気は当分大丈夫なのである」などというのを聞くと、日本はアメリカの「貢ぐ君」ではないよと、ひがみたくもなる。
日本の不況が長期化し、社会の構造改革も遅々として進まないようにみえる中で、人口の高齢化だけは着実に進行している。これではアメリカとの格差は開くいっぽうだ。このままで行くとわが国の将来はどんなものとなるのか、誰が高齢者の面倒を見るのか、考えるのも恐ろしいほどだが、ここは職務柄、パソコンを使って将来を数字で見てみることにした。
試算の前提であるが、日本の構造改革が進まないので日本経済の過小消費体質は、牢固として「改善されずに」維持される、すなわちゼロ成長と経常収支の黒字が続くと仮定する。また日本の経常黒字はすべて海外で再投資されるとする(その結果、経常収支黒字の為替相場、金利水準への影響はニュートラルとなる)。人口推計は厚生省の数字を使い、要介護老人の老人人口に占める比率は現在の比率(8.3%)が改善されないと仮定した。
計算の結果は、次のような意外なものとなった。まったく心配することはなかったのである。すなわち:
1)日本の人口がピークアウトする2005年での日本の対外純資産は、2兆2200億ドルにまで増大する(GDPの54%)。
2)この対外純資産からの受取利息はGDPの2.7%となる。
3)これで日本の防衛費(GDPの1%)を楽々と全額カバーできる。
4)さらに防衛費を払った残りで、日本の要看護老人(その時点で207万人)の介護費用として、一人あたり年間353万円を支給することができる。
日米経済は、こと貯蓄・投資バランスについていえば鏡のような対照性があるので、アメリカでは全く逆のことが起こる。だから21世紀において日本の防衛費と要介護老人の介護費用を払うのは、アメリカの納税者ということになる。まるでイソップの「ありとキリギリス」の童話だ。
不況が続いて、お隣の芝生が青く見えることもあるが、日本人はそれほどひがんだり卑屈になることはないと思う。同時にアメリカ経済の強さを必要以上に過大に評価することも間違っているように思う。
おごることなく、卑屈になることなく、常に等身大で自分と相手を見ることが大切なのである。そうすれば「百戦危うべからず」と孫子もいっている。
(1999年4月5日 橋本尚幸)
そんな中で、アメリカの一流エコノミストが「日本の景気回復は当分期待できない。だから日本からアメリカへの資本移動は続かざるをえない。したがってアメリカの景気は当分大丈夫なのである」などというのを聞くと、日本はアメリカの「貢ぐ君」ではないよと、ひがみたくもなる。
日本の不況が長期化し、社会の構造改革も遅々として進まないようにみえる中で、人口の高齢化だけは着実に進行している。これではアメリカとの格差は開くいっぽうだ。このままで行くとわが国の将来はどんなものとなるのか、誰が高齢者の面倒を見るのか、考えるのも恐ろしいほどだが、ここは職務柄、パソコンを使って将来を数字で見てみることにした。
試算の前提であるが、日本の構造改革が進まないので日本経済の過小消費体質は、牢固として「改善されずに」維持される、すなわちゼロ成長と経常収支の黒字が続くと仮定する。また日本の経常黒字はすべて海外で再投資されるとする(その結果、経常収支黒字の為替相場、金利水準への影響はニュートラルとなる)。人口推計は厚生省の数字を使い、要介護老人の老人人口に占める比率は現在の比率(8.3%)が改善されないと仮定した。
計算の結果は、次のような意外なものとなった。まったく心配することはなかったのである。すなわち:
1)日本の人口がピークアウトする2005年での日本の対外純資産は、2兆2200億ドルにまで増大する(GDPの54%)。
2)この対外純資産からの受取利息はGDPの2.7%となる。
3)これで日本の防衛費(GDPの1%)を楽々と全額カバーできる。
4)さらに防衛費を払った残りで、日本の要看護老人(その時点で207万人)の介護費用として、一人あたり年間353万円を支給することができる。
日米経済は、こと貯蓄・投資バランスについていえば鏡のような対照性があるので、アメリカでは全く逆のことが起こる。だから21世紀において日本の防衛費と要介護老人の介護費用を払うのは、アメリカの納税者ということになる。まるでイソップの「ありとキリギリス」の童話だ。
不況が続いて、お隣の芝生が青く見えることもあるが、日本人はそれほどひがんだり卑屈になることはないと思う。同時にアメリカ経済の強さを必要以上に過大に評価することも間違っているように思う。
おごることなく、卑屈になることなく、常に等身大で自分と相手を見ることが大切なのである。そうすれば「百戦危うべからず」と孫子もいっている。
(1999年4月5日 橋本尚幸)
1999年3月1日月曜日
伸縮両面のある「日本式リストラ」のすすめ
社会経済生産性本部によると、日本の一人あたりGDPは、OECD12カ国のなかでトップであるにもかかわらず、国民経済生産性(実質GDP/就業者)となると大きく低下し、12カ国中11位にまで落ちてしまうとのことである(ちなみに最下位は韓国)。
どうしてこのようなことになるのか。いろいろの理由が考えられるが、ここでは日本の人口に占める就業者の比率が欧米に比べて高いことに注目したい。
ひらたくいうと、欧米では働く人は根を詰めて働くが、働かない人はまったく働かないという具合に、二つの種類の人間の間にはっきりした分化が進んでいるようなのだ。働く人は目一杯働くから当然生産性は上がる。一方、日本では、その分化がそれほど明確でなく、誰もが自分のペースで、できる限り長く社会に貢献するのを良しとする伝統がある。大勢でゆっくり働くので、生産性は落ちる。
あるシンクタンクの試算によると日本の企業内過剰雇用は700万人に達するという。また高齢の就業者も多く、日本の65歳以上の労働力人口は495万人にものぼり、65歳以上の人口の24%を占めるが、米国ではその比率は12%、英国においては5%にしか過ぎない。
日本の経済システムでは、生産性は落ちるが全体の生産量と雇用は多くなるのである。日本企業は社会的な役割も負わされているともいえる。(それにしては国際的にみて企業の税負担が高いが、ここではそれに触れない)
日本型システムに対する批判は強い。しかし、できるだけ多くの人々に、柔軟な賃金体系のもとに、その余裕と能力に応じて広く活躍の機会を提供するという考え方は、基本的に間違っているとは思えない。これが共同体意識、チームワーク精神につながってくる。これは日本パワーの源泉でもあった。
ヨーロッパではいま、「ワークシェアリング」といって、就業機会をより多くの人々で共有する試みがなされている。これは日本型システムの模倣だが、「模倣」は最高の「賛辞」であるのだ。
グローバル化による価値観の一律化が進んでいるが、社会と文化が異なれば自ずとやり方も異なる。現在、未曾有の不況の中で企業のリストラが進んでいる。しかし、このような日本社会の性格を配慮せず、縮小均衡のみを追求するリストラでは、経済全体としては資源の最適配分につながらないと思う。
縮みと並行して、己の強みの分野に於いては、積極的に人的資源を投入する拡張策が期待される所以である。
(1999年3月1日 橋本尚幸)
どうしてこのようなことになるのか。いろいろの理由が考えられるが、ここでは日本の人口に占める就業者の比率が欧米に比べて高いことに注目したい。
ひらたくいうと、欧米では働く人は根を詰めて働くが、働かない人はまったく働かないという具合に、二つの種類の人間の間にはっきりした分化が進んでいるようなのだ。働く人は目一杯働くから当然生産性は上がる。一方、日本では、その分化がそれほど明確でなく、誰もが自分のペースで、できる限り長く社会に貢献するのを良しとする伝統がある。大勢でゆっくり働くので、生産性は落ちる。
あるシンクタンクの試算によると日本の企業内過剰雇用は700万人に達するという。また高齢の就業者も多く、日本の65歳以上の労働力人口は495万人にものぼり、65歳以上の人口の24%を占めるが、米国ではその比率は12%、英国においては5%にしか過ぎない。
日本の経済システムでは、生産性は落ちるが全体の生産量と雇用は多くなるのである。日本企業は社会的な役割も負わされているともいえる。(それにしては国際的にみて企業の税負担が高いが、ここではそれに触れない)
日本型システムに対する批判は強い。しかし、できるだけ多くの人々に、柔軟な賃金体系のもとに、その余裕と能力に応じて広く活躍の機会を提供するという考え方は、基本的に間違っているとは思えない。これが共同体意識、チームワーク精神につながってくる。これは日本パワーの源泉でもあった。
ヨーロッパではいま、「ワークシェアリング」といって、就業機会をより多くの人々で共有する試みがなされている。これは日本型システムの模倣だが、「模倣」は最高の「賛辞」であるのだ。
グローバル化による価値観の一律化が進んでいるが、社会と文化が異なれば自ずとやり方も異なる。現在、未曾有の不況の中で企業のリストラが進んでいる。しかし、このような日本社会の性格を配慮せず、縮小均衡のみを追求するリストラでは、経済全体としては資源の最適配分につながらないと思う。
縮みと並行して、己の強みの分野に於いては、積極的に人的資源を投入する拡張策が期待される所以である。
(1999年3月1日 橋本尚幸)
1999年2月5日金曜日
「バブルで滅んだ国はない」
不況もこれだけ長引いてくると、景気の悪い話など誰もあまり聞きたくなくなるものと見え、経済見通しについて観察するところをありのまま申し上げると「どうも悲観的にすぎるじゃないの」とか「景気の悪いのは百も承知。少しでも明るいところを探してきてほしい」などいわれることがある。小渕首相も通常国会の冒頭の施政方針演説で「いまや大いなる悲観主義から脱却すべきときが来ている。いま必要なのは確固たる意志を持った建設的楽観主義である」と強調し格好がよかった。まことにもっともな態度であるが、それをとらえて「調査機関や企業の調査部門の連中が弱気なことばかりいうから日本経済はますます萎縮するのだ、あいつらはけしからん」ということにつながるのなら、それはちょっと違うという気がする。
たしかにビジネスマンの基本的資質に楽観的ということがある。しかしこの楽観的ということは、外的環境を自分に都合のよいようにねじ曲げて甘く解釈することではなく、外的環境をありのままに見据えた上で、積極的に、適切な対応策を実行に移すことにあると思う。それこそ「建設的な楽観主義」であろう。
現実に、多くの日本企業が、かつて景気のよかった頃には手が着けることができなかった構造改革に本腰を入れて着手している。なにせ企業の生き残りがかかっているのである。その意味で、今回の不況は、時代に適合しなくなっている昔からのしがらみを断ち切る絶好の機会ともいえるのだ。
こういった企業の対応は、主に人件費などの固定費の削減を目指すもの、不採算部門からの撤退、または合併・業界再編、さらに新規成長分野・得意分野への集中的な投資など、いくつかの種類に分類できる。これらの動きは連日のように新聞紙上をにぎわしており、日本企業の対応の的確さと迅速さには目を見張るものがある。もっともいまの大不況にあって初めてこれが可能になったという面もあり、不況にもなかなかよいところもあるのである。
経済発展の歴史をみると、バブルとその崩壊は限りなく繰り返されたが、それで滅んだ国はなかったことがわかる。景気循環の歴史の専門家によれば、好況と不況(恐慌)は19世紀以来、ほぼ10年ごとに繰り返されてきたが、不況(恐慌)の度ごとに、当該社会の産業競争力が強化され、生産性の向上が見られたという。
国は経済の悪化によっては滅亡しない。経済悪化で情緒不安定になったときに下す政治外交的判断の誤りによって滅ぶといわれるが、企業においても同じことだ。
平成不況の中、大部分の日本企業は冷静に平常心を失わず、着々と正しい対応を実行しつつあるのを見るにつけ、不況は来年まで続くかもしれないが、日本産業の競争力は着実に強化されつつあると判断する。そういう意味で、私はきわめて楽観的なのである。
(1999年2月5日 橋本尚幸)
たしかにビジネスマンの基本的資質に楽観的ということがある。しかしこの楽観的ということは、外的環境を自分に都合のよいようにねじ曲げて甘く解釈することではなく、外的環境をありのままに見据えた上で、積極的に、適切な対応策を実行に移すことにあると思う。それこそ「建設的な楽観主義」であろう。
現実に、多くの日本企業が、かつて景気のよかった頃には手が着けることができなかった構造改革に本腰を入れて着手している。なにせ企業の生き残りがかかっているのである。その意味で、今回の不況は、時代に適合しなくなっている昔からのしがらみを断ち切る絶好の機会ともいえるのだ。
こういった企業の対応は、主に人件費などの固定費の削減を目指すもの、不採算部門からの撤退、または合併・業界再編、さらに新規成長分野・得意分野への集中的な投資など、いくつかの種類に分類できる。これらの動きは連日のように新聞紙上をにぎわしており、日本企業の対応の的確さと迅速さには目を見張るものがある。もっともいまの大不況にあって初めてこれが可能になったという面もあり、不況にもなかなかよいところもあるのである。
経済発展の歴史をみると、バブルとその崩壊は限りなく繰り返されたが、それで滅んだ国はなかったことがわかる。景気循環の歴史の専門家によれば、好況と不況(恐慌)は19世紀以来、ほぼ10年ごとに繰り返されてきたが、不況(恐慌)の度ごとに、当該社会の産業競争力が強化され、生産性の向上が見られたという。
国は経済の悪化によっては滅亡しない。経済悪化で情緒不安定になったときに下す政治外交的判断の誤りによって滅ぶといわれるが、企業においても同じことだ。
平成不況の中、大部分の日本企業は冷静に平常心を失わず、着々と正しい対応を実行しつつあるのを見るにつけ、不況は来年まで続くかもしれないが、日本産業の競争力は着実に強化されつつあると判断する。そういう意味で、私はきわめて楽観的なのである。
(1999年2月5日 橋本尚幸)
1999年2月1日月曜日
バランスシートで見た日本経済
先月のこのコラムで「調整インフレが警戒されている」と書いたところ、複数の人から「調整インフレ論者だった筈の筆者がいつの間に宗旨がえをしたのか」とお叱りをいただいた。筆者としては、資産家はこう考えているのだろうとの、観測を述べたつもりだったが、いつもながらの舌足らずな文章のため意が伝わらなかった。反省。そういうことで今回も、日本の遊休化した資本ストックと水膨れした個人金融資産の関係について、価格の問題を絡めて、考えてみたい。
現下の不況の根本原因に、過剰な資本ストックがある。1980年代後半、内需拡大のかけ声の元に、企業は過剰投資を積み重ね、伝統的に低いレベルでおさまっていた資本係数を異常な高さにまで押し上げてしまった。日本経済は全体で50兆円とも100兆円とも言われる余分な供給能力を抱えることになったのである。今の不況は、この矛盾を調整する苦しみの過程にほかならない。
日本経済をひとつのバランスシートに表してみると、この供給能力の過剰とは、借方側の資産部分が実態以上に大きな金額で書かれているということである。実際には、実物資産の相当部分が稼働していないわけで、余分で価値のない設備が額面で帳面に記入されているのだ。このバランスシートの調整が今後確実に進行していくことになる。
問題は、この借方側の実物資産の過大評価に対応する貸方側の調整である。借方が実態以上に水膨れしているということは、貸方側も実態以上に過大に評価されている(不良債権化している)ことである。なかでも日本人一人当たり1000万円、全体で1200兆円にのぼるという個人金融資産の実態はどうかという点が興味深い。資産部分(借方)が水膨れしていることに対応して、この1200兆円も、そうとう大幅に過大評価されている(不良債権化している)はずである。日本の資本効率の驚くべき低さが、何よりも雄弁にそれを物語っている。
実物資産(設備機械)の除却が進行して借方の過大評価が解消するにつれ、過大評価されている貸方側でも調整が進む。その方法は、利益の吐き出し(企業の負担)、資本金部分の圧縮(株主の負担)、借入金部分の切り捨て(債権者の負担)などがあり、それぞれの部門が応分の負担をしなければならない。家計の金融資産(大部分が預貯金)も「円安をともなった物価の上昇」により実質的に減価させることも可能なのである。
鎌倉時代、当時の国土防衛戦争(元寇)の出費で困窮した御家人集団を救うため、徳政令が考案された。いま「平成の徳政令」として「調整インフレ」が議論されている。それに賛成するか、反対するかは、経済政策的に正しいかどうかというよりは、論者の資産ポジションによって大きく影響されているように思う。
(橋本尚幸)
現下の不況の根本原因に、過剰な資本ストックがある。1980年代後半、内需拡大のかけ声の元に、企業は過剰投資を積み重ね、伝統的に低いレベルでおさまっていた資本係数を異常な高さにまで押し上げてしまった。日本経済は全体で50兆円とも100兆円とも言われる余分な供給能力を抱えることになったのである。今の不況は、この矛盾を調整する苦しみの過程にほかならない。
日本経済をひとつのバランスシートに表してみると、この供給能力の過剰とは、借方側の資産部分が実態以上に大きな金額で書かれているということである。実際には、実物資産の相当部分が稼働していないわけで、余分で価値のない設備が額面で帳面に記入されているのだ。このバランスシートの調整が今後確実に進行していくことになる。
問題は、この借方側の実物資産の過大評価に対応する貸方側の調整である。借方が実態以上に水膨れしているということは、貸方側も実態以上に過大に評価されている(不良債権化している)ことである。なかでも日本人一人当たり1000万円、全体で1200兆円にのぼるという個人金融資産の実態はどうかという点が興味深い。資産部分(借方)が水膨れしていることに対応して、この1200兆円も、そうとう大幅に過大評価されている(不良債権化している)はずである。日本の資本効率の驚くべき低さが、何よりも雄弁にそれを物語っている。
実物資産(設備機械)の除却が進行して借方の過大評価が解消するにつれ、過大評価されている貸方側でも調整が進む。その方法は、利益の吐き出し(企業の負担)、資本金部分の圧縮(株主の負担)、借入金部分の切り捨て(債権者の負担)などがあり、それぞれの部門が応分の負担をしなければならない。家計の金融資産(大部分が預貯金)も「円安をともなった物価の上昇」により実質的に減価させることも可能なのである。
鎌倉時代、当時の国土防衛戦争(元寇)の出費で困窮した御家人集団を救うため、徳政令が考案された。いま「平成の徳政令」として「調整インフレ」が議論されている。それに賛成するか、反対するかは、経済政策的に正しいかどうかというよりは、論者の資産ポジションによって大きく影響されているように思う。
(橋本尚幸)
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